このようなAAC的思想の広がりとともに,こころの自立をサポートする道具としてコミュニケーションエイド,特にハイテクエイドの役割が増大しつつあります。様々なコミュニケーションエイドが市販されるようになりつつありますが,それを利用する人も少しずつ増えてきているようです。しかし,十分な活用がなされているかとい
えば,まだまだのような気がします。
1つには,自己決定が自立を支援するという考え方の欠如,それにより,コミュニケーションの基礎が十分出来ていないまま,他者の判断で介助に頼って生活する人が多い点があげられます。そういった人たちにとって,エイドの利用は面倒くさい,苦労を強いるものにしか映らないかもしれません。また,障害を持つ子供の場合,訓練して自ら話せるようになろう,それが困難なときの最終手段としてエイドを利用すればと考える教師や親も多いようです。コミュニケーション能力は,コミュニケーションを通して発達するはずなのですが,十分なコミュニケーション経験を持てないまま成長する子供達がいます。「ある日突然,エイドを使ってコミュニケーションをとろうと言われても.....」,当惑する子どもの姿が目に浮かびます。確かに,エイドは子どもにかわってしゃべってはくれるのですが,何を話せばいいのか分からない子供達がいます。テクノロジーはAACの手段の1つにすぎません。ハイテクエイドが利用できなくても,コミュニケーションの方法はあるはずです。手段にこだわらないコミュニケーションの方法をAACから学ぶ必要があります。
もう1つは,エイド開発を行う人々の障害・自立やコミュニケーションに対する理解が不十分であり,エイドが単なる動作代行の道具となっている点があげられます。それを端的に表しているのが,コミュニケーションエイドの機能です。わが国のコミュニケーションエイドを例にとってみると,その大半はタイプして文章を構成し,それを音声化するといったものが中心です。Blackstone(1996)が指摘するように,その焦点は,話すことと書くことにあり,さしずめAugmentative and alternative speaking and writing (AASW)といった状況にあると言えなくもありません。つまり,日常生活動作の一部である「話す」,「書く」といった動作にこだわりすぎて,コミュニケーションの持つ本当の意味を忘れているような気がします。表現までに時間がかかるから言いたいことが十分伝える気にならないといったエイドは,不十分と言わざるをえません。コミュニケーション本来の意味を引き出すエイド開発にも,AACの考え方が
不可欠のように思われます。